ユートピアを望んでいる
今日もけたたましいラッパが聞こえる。
ルナ教徒と新政府の戦争は長らく停戦状態にあるというのに、ルナ教の聖戦を告げるサイレンだけは毎日のように耳をつんざくのだ。
朝というには遅い時間だ。おれは傷んだ硬いソファからむくりと体を起こした。脚がすれてガタガタいうテーブルの上に投げ出された乾いたパンをつかんで、水と一緒に押し込んだ。ふと、形だけはずいぶんきれいに整えられたベッドに目が行った。別に連れ込んだ女を期待したわけじゃあない(そもそも連れ込んでもいないのだ)。おれなどに抱かれたがるそんなモノ好きはいやしないだろう。
「あら、起きていらしたのですか」
裏口からひょこりと女が顔をのぞかせた。もう慣れたものだが、何故この女はめくらだというのにおれが起きたことを感知するのが早いのか。水差しを持った手の上で十字架の鎖が鳴った。女は漆黒の衣を翻してのんびりと植木鉢に水をやっている。
「……なァあんた。いつまでその恰好でいるつもりだ」
「その恰好とは?」
「どう見たってシスター服だ。政府の連中にでも見つかったらどうなることか、」
「ふふ、見つかりっこありませんよ。こんな郊外のお家になど、お忙しい政府の方々はわざわざ人をやったりしないでしょう。それに、私はあなたの言いつけ通り、早朝と深夜にしか外に出ていません。それも水汲みをするためだけ」
ところで、郵便受けに何か届いているようですよ。それだけ言うと女はまた花を愛で始めた。そのつむったままの目で、いったい何を見ているのか、おれには甚だ疑問だった。
戸を開けると、生ぬるい風が吹き込んできた。砂埃を被った郵便受けの口に乱暴に手を突っ込むと、汚い手紙とも言えないような紙切れが五、六枚落ちてきた。今日は多いほうだ。
「三番街のカヌス通り、五番街のクラビス通り……遠いな」夜遅くまでかかりそうだ。
でかい黒い袋を数枚荷台に投げ入れる。重労働を覚悟してため息をついた。
家の中に顔を出すと、女はいなかった。おおかた隣の小部屋で祈りでも捧げているのだろうと見切りをつけて、そのまま家を出た。
さびくさいハンドルを持っておれはごろごろと荷台を引きずっている。戦争が停滞していたって、人はいつもどこかで死んでいるのだ。そいつを拾って役人の野郎に届けて金を受け取るのがおれ。死肉のにおいや汚れさえ気にしなければ楽な仕事だ。数年前まではおれとて小さいながらも土地を持ってはいたのだが、革命が進んで新政府にぶんどられてしまった。だからこんな廃れた街に仕事を探して出てきたのだ。
目的地のカヌス通りに近づくと、見知った顔が手を振っていた。配達業者のシレオだ。やや態度が軽くて調子づくところはあるが、信用のできる、気の置けない男だ。
「仕事か? ご苦労なこって」
「まァな。だが争う相手がいないってのは気楽だよ。お前は?」
「今終わったとこだ。吸うか」シレオはのっそりとした肉厚な手でちびた煙草をつまんでいた。
「いや、いい」
「嫌いだったか」
「ニオイがつくとうるさい奴がいるんでね」
「……例の?」
「例の」
シレオは器用に片眉をあげてにやりとした。
「なんだ、厄介者扱いしてたくせに、まだちゃんと家に置いてやってるのか。案外気に入ってるんじゃないのか?」
「ジョークか?あんなもん匿ってたことなんて知られたらおれが捕まっちまうよ」
「そんなヤバい女だったのか」
そういえばこいつには言ってなかったか。
元はといえばあのめくらはおれが拾ったものだった。死体だと通報を受けて回収しに行ったら動いたんだから、一目見たときは腰が抜けるかと思った。今思えばなんであんなもん拾ったのか、後悔は多いが、あの女が作る豆のスープはなかなか旨いものだから無責任に追い出せずにいるのが現状だ(女の顔が存外きれいだった、というのもまぁ、少しある)。なぜ行き倒れて帰る場所もないのかはそれなりに予想がついたが、おれにはどうだっていいことだった。
「ルナ教のシスターだったよ、あの死にぞこない」
「……笑えねえジョークだな」シレオは眉をひそめたが、そう驚いてはいないようだった。
「なに、今はまだ政府の連中も落ち着いてる。大事には、おそらくならねえさ」
お前がわざわざいらないことを口走ったりしなけりゃァな。半分冗談ににらむとシレオはへらりと笑う。おれも口を緩ませた。
シレオは細い煙を吐き出すとおれに耳打ちをした。
「で、さ。そいつ処女か?」
本当に今日は偶然で他意のないただの気まぐれだった。
ぐたりと転がる肉を起こして上着をまさぐる。何も入っていないのを確認して小さく舌打ちをした。
ふと、なんとはなしに顔を見てみた。三十代くらいの男の死体だ。
「……あぁ」
おそらくは浮浪者か何かだろう。よく見る安物の上着にシャツに靴。どこにだってある。この死体だって、すべてはどこにだってあるものだと、おれは自分に語っていた。半ば癖となった動きでそれを黒い袋に詰め始める。力の無い重い足先から袋の口を通してそのままずるずると頭まで。あとは荷台に並べて焼却場に引きずっていくだけ。今日は量が多かったから二度に分けて運ばなければならない。おれにとってはただの肉体労働なのだ。ただの。
「……こいつも多分、」そこまで言って、口を動かすのをやめた。
どうでもいいことなのだ。こいつがどこからきて何を得ようとして何を得られなかったかなど、きっと、どうでもいいことなのだ。おれがそれを知っていたところで、どうなるわけでもない、関係のないことなのだ。
どこでだれが、のたれ死んでいようと、おれはそれを少しの金に換えるだけなのだ。
(そうだ、おれがたとえこの男の顔を見たことがあっても)
差し出された紙幣を乱暴にひっつかんで暗い路地を歩いた。気分が悪い。今日に限って酒など飲む気も起きなかった。
もう夜だっていうのに、あのラッパの音が頭の中に響いていた。
ドアを引くと女が食卓に皿を並べていた。スープの香りがした。
「あら、おかえりなさい」
女がこちらを見て(といっても見えてはいないのだろうが)、口元をほころばせた。
「……ただい、ま」
おれはどこかぼうっとした頭で椅子に座った。ギシ、とそれが鳴く。目の前にはパンとミルクと、豆のスープが置かれた。女もおれの向かいに座る。おれがパンをちぎり口に入れ始めるのを見計らったみたいに、女も食事を始めた。
カチ、カチと秒針の音が聞こえる。この静寂の中ではひときわ大きくその音は聞こえたはずなのに、あのラッパの音は脳味噌を揺らすことを止めてはくれなかった。
「……なァ、なんでラッパなんだ」
「えっ?」
「あんたたちの聖戦の合図とやらは、なぜラッパの音なんだ」
女はスプーンを置くと、数秒だけ考えるようにして、それから表情を少し改めて語り出した。その目はどこにも定まってはいなかったが、たしかに、おれに向けられていた。
「……あの音は、天使さまが鳴らしているものです。世界に終焉が訪れるとき、神さまは天使さまと共にこの地へ降り立ち、私たち人類をすべて善と悪に分けられます。悪人は恐ろしい地獄へと墜ち、善人は天国へ、楽園へと迎えられるのです。苦行に耐え抜き、神を信じて善行を積んだ者たちだけが善人とみなされ、理想郷を約束されます。」
「じゃあなにか、あんたたちは神のまねごとをしてるのか」
「待ちわびているのですよ。その審判の日を」
「……おかしいよ、あんたたちは」
気が付くと、おれの頬には手が添えられていた。いつの間にかおれの横に立っていた、女の手だ。
「なんのつもり、だ」
「だって、泣きそうな顔をしていらしたものですから」
そうして首に手をまわされて、女の胸元に引き寄せられた。
(見えちゃあいないくせに)
おれはなんだかどうにもたまらなくなって、そのめくらの胸に鼻づらをうずめた。女は存外あたたかいものだった。v
「く、あんた、処女じゃなくなっちまうぞ、いいのか」
「ふふ、そんなことに、意味などないのですよ」
「……死体臭いだろう、おれは」
女はもう何も言わずにおれにまわした腕の力を少しだけ強めた。こいつがめくらで良かったと、このときほど思ったことはない。ラッパの音は少しだけ小さくなっていた。
またラッパの音で目が覚めた。女は隣で眠っていた。
だるい体を起こして窓を見る。既に日は登っていて、仕事の時間だと告げていた。やけにシーツの感触が掌に伝わった。ベッドで寝たのは何日ぶりだっただろうか、ごわごわとしていてマットも決して柔らかいものではないことはとっくに知っていたが、おれは柄にもなく、シーツだけでも買い換えようかと、そう思った。
女が身じろぎをした。おれは妙に気恥ずかしくなって、テーブルの上のパンを一切れだけ口に入れて、足早に家を出た。今日の紙切れは三枚だった。多少は早く帰れそうだ。
ずるり、ずるり、と荷台にふたつの重しを乗せて薄暗い路地を歩く。目線を下に落としていたら一匹のネズミが視界に入った。それが向かう先にあったのは黒い塊だった。塊は予想を外れること無くぴくりとも動かず、その上にはわらわらと十数のネズミが群がっていた。死肉をかじりながらちょろちょろと動く奴らに寒気がして、おれはそれを振り払うように一匹のネズミを蹴り飛ばした。壁に叩きつけられたそれはぽとりと力なく地べたに落ちると、よろよろ這いずって近くの下水道穴に潜っていった。
早足で近寄って死体をひっくり返す。地へ伏せた黒衣はシスター服だった。土埃に汚れた黒布をまとった女は濁った目をかっぴらいたまま死んでいた。死体にはそれと分かるめった刺しの外傷と無理矢理犯したような痕跡があった。ひどいにおいだ。
乾きかけた血だまりに沈んだ肉塊になおも纏わりつくげっ歯類に、おれは何か言及しにくいいやな予感がした。
血生臭いそれを手早く袋に詰める。こんなところに長居をしたくはなかった。気が狂いそうだ。女の足を突っ込んで口を閉じたあたりで、背後の路地から熊みたいな男が顔を出した。シレオだ。
「よぉ」
シレオは昨日と違って薄茶色をしたパイプをふかしていた。暗闇の中に小さな火の明かりが揺らめいている。
「……なんだ、お前か」若干の安堵のため息が出た。
「なんだとはなんだ、それより、お前聞いたか」
シレオは挨拶もそこそに、やけに神妙な顔をして、聞いてもいないのに話し始めた。
教徒と政府どもの抗争が再開されたらしい。
口火を切ったのは教徒側のようだが、政府側の弾圧が今の段階でもひどいものだと、もっと悪いことにそれに加えて一般民衆がまるで悪ふざけに便乗するように暴動を起こしているのだという。
「この辺はまだ被害が少ないみたいだが――」
シレオがどうした、と声をかける前に、おれは袋を放り捨てて駆け出していた。
ラッパの音が鳴り響いている。おれにはこの音が実際に鳴っているものなのか、それともおれの頭の中だけの幻聴なのかが区別がつかなかった。ハンマーにでも打ち付けられたかのように頭が痛かった。途中何人かの男とすれ違った気がしたが、かまってはいられなかった。
道が暗い。躓いてしまいそうだ。酸欠の筋肉に鞭を打って走った。行く先は言うまでもない。
古びた木製のドアの隙間から明かりが、もれていた。体の熱から滲みだしたはずの汗が一瞬で冷や汗に代わるのをおれは感じずにはいられなかった。まさか、だって、そんな。きっとただのあいつの不注意だ。しかもこんな街から離れた郊外になんでわざわざくる必要がある。何の得がある? ああ、ラッパの音が耳障りだ。おれは汗でじっとりと濡れた手をノブにかけ、そして、ドアを。
開けた。
飛び込んできたのは、目一杯の赤と、くずおれた黒だった。
――もし、もしもだ、おれが、今新品のシーツを持っていたとして、おれは眼下の惨状をその純白で包み、隠してやるということができたのだろうか。おれは、転がったロザリオを拾い上げてキスの一つでもできたのだろうか。
ラッパが鳴り続けている。これは幻聴などではなかった。
女がうつろな青い目でこちらを見ていた。今度こそおれを映していないという確証はあったが、それでもこのめくらはおれを見つめていた。ひゅ、とのどが鋭く息を吸った。
「なァ、めくら」
おまえはこれでもまだ、最後の審判とやらを待ち続けるっていうのか?
答えるものはただ、つんざくラッパの音だけだった。
いくら待っても最後の審判は来ない