置きざりの子ども

 二重はどこかヘンなやつだった。
 何か特殊な趣味を持っているわけでも、一目でわかるほど気が違っているわけでもなかったし、普通に接していればただのおとなしい優等生だ。俺も知り合って四年ほどになるが、良い友人だと思う。だがひとつだけおかしなところをあげるとすれば、思い込みが激しいことくらいだろうか。

 二重は、死んだ祖父がまだ生きていると思い込んでいる。


ろくに涼しくもないエアコンの稼動音が響く図書館で、二重が口を開いた。
「新庄くん、さ。夏休みどうするの」
「……考えてないな」
「じゃあさ、僕の実家に来ない?」

ぼた、と雫が書きかけのノートの上に落ちる。二重は目線すら上げずにシャープペンシルを走らせる。
「両親が、友達連れてこいって言うんだ。何もないとこだけど……そうだなあ、多分、ここよりは涼しいよ」
俺の返事は一度蝉の声にかき消された。


 東京駅から東北新幹線に乗って三時間、山形まで指定席に腰を貼り付ける。着替えと手土産を詰めたボストンバッグを頭上の棚に預けてスマートフォンに指を滑らせた。アプリゲームの通知が来ていたが、山道に入ると電波が悪くなる。俺を誘った本人といえば、隣に座ってものの二十分で眠りについた。
 目的の駅の直前で二重は大あくびをしながら目を覚ました。
「ちょっと歩いてバスに乗ろう」
なんとなく空気が違うような気がした。そこかしこから土と草の濃い匂いがする。
「何もないでしょ」
「そうだな」
バスから見える風景はどんどん茶と緑に染まっていった。降りたのは昼過ぎで、刺すような日照りと塗装のされていない地面からの熱気に参りそうになる。汗が顎を伝った。
「涼しいんじゃなかったのか」
「あはは、まあ盆地だからさ、許してよ。家帰ったら西瓜あるって、母さんが」
 そう言う二重もタオルを頭にかぶっている。ゆるやかな山道だったが蝉の声がうるさい。時折軽トラックが横を素通りした。
 ふと、荷台に野菜を積んだ軽トラックが数メートル先で止まったかと思うと、窓から四、五十代くらいの男が顔を出した。
「長岡さん?」
「おお、二重さんとごの子が? 帰って来ったっけの」
「孫久です。お久しぶりで」
「ああ、んだんだ。今帰って来たのが?」
「んだ、友達連れて来てて」
「んだら乗ってぐが?」
「いんですか?」
「荷台でわりげっどなぁ」
 訛りが強くて六割くらいの理解しかできない俺を差し置き、二重はぱっと笑って「だって! 乗せてもらおう」と言ってのけた。言われるままに荷台へ引っ張られ、十数分間茄子やら胡瓜やらと同じ扱いを受けることになった。
 俺が荷台から降りガタガタ揺れたせいで痛む尻をさすっている間に、二重は長岡さんから野菜をお裾分けして貰ったようで手荷物がひとつ増えていた。
「ここだよ」
 長かった、と息を吐いたのもつかの間で、すぐ近くから耳をつんざく鳥の鳴き声に驚いて声を上げてしまった。
「うわ、」
 二重の家の庭にはそこまで高くもない柵が張られていたのだが、一瞬でこいつのためだと合点がいった。雄鶏だ。さすが田舎と言ったところか、この家では庭で鶏を飼っているらしい。ペットだろうか。
「わあ、結構大きくなったなあ。そろそろ食べ頃なんじゃない? ただいまぁ」
 玄関先で二重が間延びした声を出す。奥から息子と同じような焦茶色の髪を伸ばして、肩口で緩く結った大人しそうな女性が顔を出した。
「おかえり、孫久。あら、そちらが?」
「あ、どうも、少しの間お世話になります。新庄です」
 つまらないものですが、菓子の入った紙袋を渡した。エプロン姿の母親が慌てたように出て来てにっこりと笑う。
「あら〜、ありがとさまねえ。孫久がお世話になって……。どうぞ、上がってけらっしゃい」
「荷物二階に置いてくるね」
「置いだら降りてきてね、西瓜切ってあるから」

 新しくはない家屋の階段は足をかけるたびに軋む音を立てたが、よく掃除されているようで不快感はなかった。ただ、誰の趣味だろうか一角の棚に所狭しと並んだこけしの一団は少し気味が悪かった。
「僕の部屋にとりあえず荷物だけ置こう。布団二つ敷くにはちょっと狭いから……仏間でいい?」
「どこでもいい」
「わかった」
 その日は夕飯と西瓜を食べてすぐに寝た。他人の家で眠るのは久しぶりだった。ついさっき二重の父親に会ったが、なんだか厳しそうな印象を受ける人だった。並んで見ると息子の容姿は母親に似たようだった。だが会って数秒で酒を勧めてくるあたり、歓迎されていないわけではなさそうだ。むしろ逆だろう。そんなことを考えながら眠りについた。ちなみに二重は床に就いてから一言も発することなく数分で寝息を立てていた。

「釣りに行こう」
「冗談だろお前」
 朝四時に叩き起こされた。目の前には釣り竿、小型のクーラーボックス、麦わら帽子までご丁寧に用意した二重が雀斑の散った顔でころころと笑い、外では高らかな雄鶏の鳴き声が響いていた。
 民家から歩いて十五分もすれば周囲はすっかり山道だ。忠告された通り歩きやすい靴を履いて来たが、街中で育った引きこもりにはもう既に足腰が辛い。それなのに二重はといえば俺の分の荷物まで持っているというのに、上機嫌で足取りは軽やかだ。なんだったら調子外れの鼻歌まで聞こえる。しばらく入り組んだ道を歩くと、二重が振り向いた。
「もうすぐだよ」
 水の流れる音が大きくなる。木々の群れが途切れて、開けた川の上流にたどり着いた。
「綺麗でしょ?」
「あぁ……すごいな」
 川の底まで見えそうなくらい透明な水が、木漏れ日を反射してはじけるように光っている。
「ここ穴場なんだ。釣りに来る人のほとんどはもう少し下流の広いところに行くから……わざわざここに来るのは、コアな釣り好きのおじさんたちくらいかな。僕もさっきじいちゃんに言われて思い出したよ」
 だから秘密だよ、と言いながら二重は足元の小さめの岩をひっくり返した。持っていたのか小さなスコップで下の土をザクザクと削っている。ウネウネ動く虫を見つけると二重はそれをつまんで釣り針に刺した。平然ともう一匹を俺に渡そうとしてきたが拒否した。芋虫は得意じゃない。仕方ないなあと呟いて、二重は二本目の釣り針にも芋虫を刺して、竿ごと俺に渡してきた。
「ここね、僕が小学生の頃よく来てたんだ。浅いところもあるし、水が冷たくてよく入っては転んでびしょ濡れになってたよ。もうちょっと上の方に行くと赤くて甘い木の実がなってて、よく取って食べてた。結構美味しいんだよ? あっちには沼もあってね、そうそう、僕河童も見たことあるんだ」
「引いてるぞ」
「あっほんとだ」
 結局、二重は五、六匹の岩魚を釣り上げた。ほとんど釣りなどしたことがない俺でも一匹釣れたのだから、二重の言う通りここは穴場なのだろう。
 結局それはその日の夕飯になった。

 深夜、ふと目が覚めた。すぐ隣から話し声が聞こえた。薄く目を開けると、二重が誰かと話をしていた。鏡の向こうに声をかけているようだった。


 三日目の朝。外から小さく太鼓の音がしていた。
 盆祭りでもあるのだろうか。そうぼんやりと考えていると、二重の父親が口を開いた。
「孫久、午前中のうちに鶏を処理しておいてくれ」
「あっ、うん。もう食べるの?」
「そろそろいいだろう。それに、お前がやったほうがいい」
「え……分かった」
「ごちそうさま。では私はもう行く」
「行ってらっしゃい」
 それだけ言うと二重の父親はスーツを着て仕事に出かけた。まだ日差しは強くないが、 あの格好は暑いだろうな、と思った。
「お母さんも今日は学校でプールの監視しなきゃいけないから、昼誰もいなくなっからね」
「はーい、って言っても父さんすぐ隣じゃん」
「でも出かけるときは戸締りしといてね」
「うん」
「…………」
「……鶏の解体、見る?」

「昔さあ、じいちゃん養鶏場やってたんだ」
 羽まみれになった二重がぽつりと呟く。
「腰を悪くしてからはやめちゃったけど。ちっちゃい頃は僕、結構つつかれてあちこち傷作ってた」
 少し向こうに、古くなった柵があったでしょ。そこにあったんだ。で、養鶏場やめたあとは、少しきれいにして、じいちゃんがそこでしばらく生活してたんだ。やっぱり気に入ってたんだろうなあ。
 そう語る二重は、目を伏せていた。無意識でしゃべっているような、そんな感じがした。実際、古くなった柵とやらは一応名残はあったがほぼすべて焼き付いて朽ちていたし、養鶏場があったであろう場所は異常に草が生い茂り、山の一部のようだった。


 何かがおかしい、と出会ったときからうすうす思っていた。
 二重は祖父のことをよく話した。本当に好きだったのだろうと思った。最初はそれだけだった。しかし、聞いているうちに実際と話の内容が少しずつずれていった。クラスメイトは気づいていない。そんなに真剣にこいつの話を聞いたことがないからだ。何度も聞いていなければわからないほどの誤差だった。初めて二重の家に招かれ、ゲームをしに行ったとき、疑念は確信に変わった。二重は東京に出てから祖父と暮らしていると言った。高校生でそんなこと珍しいと思っていたが、実際はそんなものではなかった。二重の住んでいる借家にいたのは、二重本人だけだった。しかし、まるで二重は祖父がいるかのようにふるまった。隣の部屋で寝ているからあまり騒げないとか、今日の夕飯は祖父の好きなものにしようとか。実際に家にあったのは一人分の食器、一人分の家具、一人分の生活だけだった。二重が鏡に向かって話しているときは流石にゾッとした。そこには祖父がいるらしかった。だが、俺は何も言わなかった。おかしいのはそれだけだったからだ。それ以外はただの、何の変哲もない高校生だった。
 それからは、周りにおかしな疑いが出ないように少し気を使った。学校の教員に何度か意味深な目配せをされたことがあるから、きっと教員は知っていたのだろう。
 だから、二重が今日になって墓参りに行くと言ったときは驚いた。同じ朝食の席についていた家族すら声も出ないほど驚いていた。二重は玄関先で母親に墓へ行くことだけ伝えると、さっさと歩きだしてしまった。俺はただついていった。
 日差しがじりじりと焼けるように皮膚を刺した。墓参りをするにはいささか明るい時間だった。二重は線香すら持たずに祖父の墓へ手を合わせていた。実際はほんの数分くらいだったのかもしれないが、ずいぶん長い間手を合わせていたように思う。
 立ち上がり、ずっと黙っていた二重が口を開く。
「つきあわせてごめん。今日、お祭りあるみたいだから、夕方になったら河原に行ってみようよ」
 俺は二重が泣きそうな顔をしているのに気づいていたが、何も言わなかった。

 居間を黄ばんだ光が照らしている。小さな一匹の蛾が、蛍光灯に何度もぶつかっていた。その下で二重は煙草を取り出した。若者らしくない銘柄だった。
「お前、煙草吸うんだったか」
「吸ったことないなあ」
一本咥えて、慣れない手つきで火をつけた。案の定一口でせき込んでいる。
「……ふ、ふ。じいちゃんが、よく吸ってたんだ」
「そうか」
 二重はくすくすと笑っている。乾いた声だった。俺は受け取った発泡酒のプルタブを開けた。酒は嫌いではなかった。二重も同じものをぐびりと仰いだ、うまそうには見えなかった。
 二重は酒に弱い。それ以上に、自分からあまり好むことはなかった。煙草も。二重は若い男としては不健全すぎるくらいに健全だった。大人の言うことを破ったことはほとんどなかった。従順な子供のように。
 思えば、こいつの時は十年前から止まっていたのだ。
 涙目で吐いた煙が蛍光灯にまとわりついていた。発泡酒はもうぬるくなっている。
「本当は、さ。ずっと分かってたんだ。じいちゃんがもういないことくらい。でも、いやで、悲しくて、考えないようにしてたら……いつか、本当に分からなくなってた」
 握りしめた拳の先で煙草の灰が落ちそうになっていた。
「……ごめんなさい、じいちゃん……」
 俺は煙草を一本抜いて火をつけた。
 慣れない煙に舌が痺れる。

 小さな嗚咽は聞かなかったふりをした。


まだおかしかったころの孫久くん。結構前に書いたものなので現在の設定とちょっと違うとこありますね