檻の中の

 一年中温度も湿度も一定に保たれた無機質な部屋で、少年は不安そうにうつむいた。
「そんな顔するなよ、レオ。今回も大丈夫だ」
「……うん……」
 緊張で眉を八の字にするレオに、ジョージは気休めと分かっていながらも声をかけた。レオは目を伏せながら息を吐いた。これから自分の腕に刺されるだろう注射を見て、怯えるように唇をかんだ。
「そろそろ始めるから、手足留めるぞ」
「うう、」
 およそ穏やかではないような、冷たい手枷と足枷がレオを椅子に縛りつけるように閉じる。ジョージは血管の位置を確認している。
「今回はどれくらい痛いの続く?」
「そうだなあ、だいたい四十分くらいかな」
「うう……がんばる」
「ああ」
「がんばったら褒めてよ」
「いつも褒めてるだろ」
 口を傷つけないように布を噛まされ、レオは黙った。泣きそうに顔が歪んだので、ジョージが少し頭を撫でてくれた。
「力抜いてリラックスしろよ。……そうだ、上手だ。監視カメラでちゃんと見てるから、俺が戻ってくるまでいい子で待ってろ」
 レオはこくこくと頷いた。泣きそうなのを必死で我慢して、はやく戻ってきてと目で訴えている。  ジョージは困ったように微笑んで、レオの腕に針をあてがった。レオは注射針の刺さる痛みに少しだけ顔を歪める。
「――う、うぅ、ッ……!」
 どくり、とレオは自分の心臓が脈打つのを感じた。血管をめぐる血液がマグマのように熱い。熱い。あつい!
「んん! うぐ、ぅぅぅうぐッ、んーっ!」
 内臓がひっくり返るような激痛が全身の筋肉を駆け巡ってのたうち回る。見開いた瞳から涙が滂沱のごとく溢れた。
「ぐっ、う! う〜〜ッ……!」
 痛みで暴れる身体は強固に作られた枷で押さえつけられている。泣き叫ぶ声は口布に塞がれて脳を揺さぶるばかりだった。涙で歪む視界から、いつしかジョージが消えていたのに気付いた時、心細さで死んでしまうかと思った。

「……いい子にしてろよ」
 おそらく痛みで聞こえていないだろうレオにそう呟いて、ジョージは部屋を後にした。ジョージが担当している被験体はレオ――一〇八四番だけではない。今日はあと二人分の投薬実験が残っている。
 投薬によって行われている実験は主に、肉体の強化、脳細胞の活性化、感覚神経の強化、など。常人よりも高い能力を人体に付与させるために合成薬剤からナノマシン、ウイルスまで幅広く扱うこの研究所は、言わずもがな国家機密施設となっている。強化人間の使い道は犯罪の抑止、敵国へのスパイなど数多くあるが、そのどれにも芳しい成果を挙げられていない、というのが現状である。それでも国はこの研究に多額の費用を投与しているが、やってることといえば非人道的とも言える人体実験に過ぎない。通常の人間ではありえない能力を引き出すためにはそれ相応の負荷がかかり、多くの被験者はそれに耐えられずに、死ぬ。被験者として一度抱え込んだ人間を機密外に漏らすわけには行かない。よって被験者たちの選ぶ未来は、強化人間として成功するか、死ぬかの二択である。被験者たちだけでなく、ここに勤める研究者たちも心を病んで辞職するか、あるいは自殺という道を選んでしまうことも少なくはない。
 ジョージはここを、無機質な地獄のような場所だと思っている。
 自分をまるで悪魔であるかのように睨みつけてくる被験者を見ながら、ジョージはレオのことを思い出していた。大抵の被験者は、気が狂いそうになるほどの痛みを経験したあと、担当した研究者には敵意を向けるようになる。無理もないことである。それなのに、レオときたら悪魔どころかまるで親にでも接するように甘えてくるのだから不思議なものであった。自分を脅かす存在に媚を売ろうとしているとでも解釈すれば自然なのかもしれないが、そうとも思えなかった。ただ単純に寂しさを紛らわせたい幼児のような幼さがあった。ジョージの専門はカウンセリングではないので、ただの憶測に過ぎないのだが。そのせいで、通常ならば短期間でローテーションされるはずだが、もう長いことレオの主担当はジョージだった。よく懐いているならば、担当は変えない方が円滑に進むとの上の判断だ。
 レオの実験を開始してから三十分が過ぎていた。そろそろ戻った方がいいと、ジョージは個室に向かった。

「レオ!」
 自動ドアが開くと、レオは力なくぐったりともたれかかっていた。全身汗でびっしょりと濡れており、泣き喚いただろう口元からは口布が吸いきれなかった唾液がつたっている。
 脈を確認しようとジョージがレオの首元に指を当てると、涙をこぼしたまぶたがそっと開いた。枷と口布を外して、レオはようやく緊張が解けたようだった。自分を見上げるオレンジ色の視線にジョージは安堵の息を吐いた。
「おれ、ねて、た?」
「寝てたというより失神だな。……よく耐えたな。えらいぞ」
「へへ……」
 へにゃりと笑って、レオはジョージの手に頬をすり寄せた。疲労で頬は火照っていたが、髪は汗でしっとりと濡れている。
「ジョージ」
「なんだ」
 汗を拭うように頭を撫でてやると、レオは気持ちよさそうに目を細めた。
「……おなかすいた」
「は、大した奴だよお前は」

 汗を軽く拭って、栄養補給バーをかじりながらレオはバイタルチェックを受けている。タブレット端末に指を滑らせるジョージに声をかけた。
「来週の日曜日さ、外出許可もらえたんだ」
「そうか、付き添いは?」
「ジョージがしてよ」
「またかよ」
 模範的な被験者は、たまにではあるものの外出許可が下りる。その際、逃亡や暴走の監視役という意味での付き添いが必須になる。特に希望がなければ研究所側で指定するが、大抵の場合はその時の担当か、被験者の希望によって付添人が決まる。レオはジョージと外出したがった。
「……だめ?」
 レオが悲しそうな顔をするのでジョージは微笑んでやった。
「いいよ。どこに行きたいんだ?」
「やった。おれ甘いもの食べに行きたいな、許可下りる?」
「それぐらいだったら大丈夫だろ、伝えておくよ」
「うん」
 血液、脈、神経系、筋肉、内臓その他とりあえずの異常は見られない。問題なし、とジョージはタブレット端末から顔を上げた。もう行くの、とでも言いたげなレオと目が合う。
「これからカウンセラーがくるよ。俺とはまた明日。シャワーでも浴びてこい」
「ん……なあ、行く前にさ、もう一回あたま撫でてよ」
「……」
 言われるままにオレンジの短い髪をくしゃくしゃと撫でてやると、犬猫のような顔をした。ついでにマッサージをするようにうなじも指圧してやった。本当に、安心しきったような顔をするので、ジョージは複雑だった。
「ありがと」
「……ああ、おやすみ。レオ」
「おやすみ、ジョージ」
 レオが手をふったので、自動ドアが閉まるまでジョージもそれに返した。誰もいない廊下を、ジョージの靴音だけが歩く。
 自分を信頼しているオレンジの瞳が、ジョージにとっては少し憂鬱だった。レオは強い。それでも、ここにいる限り、常にいつ失敗するかわからない瀬戸際に立たされている。ジョージはレオを失うことが怖くて仕方がなかった。
「頼むから、死なないでくれよ……」
 自分が呟いた言葉に、ジョージは嘲笑する。レオ一人を他の被験者より特別扱いすることなど、本来はあってはならないのに、そうなれない自分が情けなかった。
 それでも、たった一日の自由時間に胸を弾ませるあの少年を、守ってやりたかった。


George(ジョージ) 三十歳
 人間兵器を製造する研究所の研究員。
 レオの兄がこの研究所で働いていて、心労により自殺したことを知っている。レオの兄から遺言として弟のことを任されており、本人にはそれを隠しながら研究所で保護した。レオが被験者になったのはジョージの意志ではない。レオの兄とは友人だった。

Leo(レオ) 十八歳
 人間兵器を製造する研究所の被験者。
 実験には相当の痛みが伴い、大半の被験者が使い物にならなくなっていく中、ギリギリのところで生き残っている。唯一の肉親である兄が失踪して以来身寄りがなく、衣食住を保証される代わりとして研究所の被験者になっている。度重なる投薬実験により常人より高い再生能力を得ている。