子どものまま

人間、誰しも。報われなかった子どもを腹の中で飼っているものだ。
 すべてに満足するような、鈍感な(言ってしまえばバカな)子どもというものは、そうそういるようなものではない。人間、どこかで必ず、人生に不満が生まれて、それを抱えたまま生きている。たいていの場合、それという存在感は、月日がたてば薄くなる。小学校のころどんなにどんなに頑張ったってマラソンで一番になれなかったことや、親が授業参観に来てくれなかったことを、死ぬ間際まで苦しんでいる大人は少ないだろう。おそらくは。

「お前さあ。俺たちに会う前に、もっと……」
 もっと。
 友達できなかったのか? というのが本音であって、しかしながらその響きはどうにも冷たすぎるような気がした。俺たちの関係もまた友達といって差し支えないのだろうかすらもよくわからない。大学生にもなって互いを友達同士だなどとわざわざ宣言したりはしないのだから。
「……遊んでくれるやつとか、いなかったわけ」
 かくして、出てきた言葉がそれであった。
 カーテンを閉め切った借家で、二人。少し前までは勝手に上がるなといちいち言われていたものだが、諦めたのか俺が平然と上がり込んでも文句を言わなくなった。大学生一人暮らしの男にしては妙に物が無くて片付いたこの部屋は寒い。足元を汚しているのは奴の本類か、もしくは俺か、でなけりゃもう一人が持ち込んだ酒やらのビンくらいだった。ろくに使った形跡のないテレビからプロ野球の音が流れる。
「ん………」
 あれは目線を俺には内容なんて何だかわからない文庫本に落としたまま、返事ともつかないような声を出す。
 こいつの沈黙は長い。じっと見ないとわからないが、時折口を何か言いたげに開いては閉じるのを繰り返して言葉を選んでいる。あるいは記憶をたどっているのか。
「いなかった……な……?」
 とくに。暗い声でもなければとぼけた声でもない。奴は文庫本に栞紐を挟んで閉じる。表紙を見てもなんだかよくわからなかった。
 奴はたばこを一本取って火をつける。たばこも俺が教えた遊びだった。
 数学だの植物だの哲学だの、学校で習うような知識はやたらもっていたけれど、こいつは遊び方を何一つ知らなかった。
 酒も、たばこも、トランプの遊び方だってろくに知らない。文字の羅列と木々のざわめきにばかり面白さを見出して、俗っぽい物を何も知らなかった。知ろうとしなかったのではなく、知る機会がなかった。
 たばこが半分まで短くなって、ぼんやりと瞳が動く。灰色の眼が炎を反射する。
「……だって、」
「あ?」
「俺と遊んでも、楽しくないだろ」
 そう、本気で。言っている。そういうやつだ。
 自己否定と劣等感の塊、世にお前以上に何もできないものなど山ほどいるというのに、そういう世界があることすら知らない。自分を見下しているまま顔を上げようとはしなかった。
 膝を抱えて唇をかんでいる己の中のガキを飼いならすこともできないままここまで来てしまった。俺にはどうすることもできない。
「……うわ、お前、さーー……」
 不服そうにこちらを見ている。ため息をつかれるいわれはないのだろうが、俺はお前に心底あきれているよ。気の毒な奴。
 おそらく、こいつは、自分が卑屈なことを知っている。何も知らないことを知っている。それでも自己嫌悪をやめられないから、自分が嫌いだということを知っている。だから手が出せない。こいつは見た目よりずっと阿呆で聡い。時間がこれを癒すまえに、擦り切れてなくなってしまうかもしれない。しかしそれを留めるのは俺の仕事じゃない。
「なあ」
 酒も。たばこも。トランプの遊び方すら知らないまま。肺を汚した煙を吐く。
「……それ、うまい?」


なにもしらないままここまできてしまった谷地道也と、それを救うのは自分じゃないことを知っている設楽