死ねないし酔えない

「血の匂いがする」
 カシュ、と缶ビールを開けた設楽を、谷地は目線だけを動かして見た。そのままひと口飲んで、設楽は唇を舐めた。
「わかるもんか? 犬みてえだな」
「薔薇の匂いと混ざってくせえ」
 おそろしく鼻がいい男は、設楽の持ってきたビニール袋から同じ缶を取り出しながら顔をしかめた。香水なんて今日はほんの少ししか付けてないし、血の匂いなんて普通わかるはずがない。
「新しいの入れたのなんて昨日の話だぜ」
「薬の匂いもする」
「そりゃ付けてるけど」
「お前はそれを煙草で上塗りするから最悪」
 煙草と酒の匂いは許すくせに適当なことを言う。けれど谷地は強い香水をつけてくると本当に機嫌を損ねるので、設楽はそれなりに気を使っていた。時たま嫌がらせをすることはあるけれど。
「槇原は?」
「後から来る」
「ふぅん」
 家主に断りもせず、設楽は無音の部屋にテレビの電源をつける。画面の向こうでは芸人がくだらないクイズ番組をしていた。興味がありません、を体現するように、谷地は煙草に火をつけた。
 ひとつ、ふたつと空の缶が並んでいく。番組が変わってもなお続くバラエティを、虚な目をした男はぼんやりと見ていた。内容なんてきっとかけらも頭に入っちゃいないんだろう。設楽は確かめるようにゆっくり唇を動かしてから、声を出した。
「お前、女嫌いなの」
「あ?」
 吐息のような音が返ってきた。
「こないだ、飲み会気分悪そうだったろ」
 酩酊した谷地に香水臭いと恨みがましく詰られたのを思い出したが、設楽は言わなかった。
「……悪かったな」
「いいけど」
「女……あー、女……嫌い、嫌い、な……」
 かし、と谷地は頭を掻いた。言葉をためらうように煙を吸って、細く吐き出した。口元は笑っているのか、そうでないかもわからない。飲み干した缶をまたひとつ床に置いた。
「……嫌いな女がいて、早く死んでほしいと思ってる」
「嫌いな女」
 嘘っぽい香料が鼻について、吐き気がするんだよ。ああ、嫌い、嫌いだな、あの女は。あの人はよく焦がした薔薇みたいな匂いがしてて、それが女の臭いと混ざってひどいにおいがした、俺だけだったろうけど、声も高くて、キンキン響いて、ずっと頭が痛かったな。俺はもう十五だったけど、あれには逆らえなくて、気分が悪かった。早く死んでほしいと思ってる、
「……義理の、母親の話」
「……おお」
「眠い……槇原が来たら起こせ」
 谷地は煙草を灰皿に押し付けると、のそりと隣の部屋に入る。酔っているように口が回ったけれど、あれは酒が強いからろくに酔ってはいないんだろう。だから、珍しいこともあるものだと思い込むことにした。あれは、どうせ自分も死ねないままでいる。


やな話だね