恋慕の色
「どうか、私を、知ってください」
不躾にも自分を押し倒す巨躯の男は、普段の理想のような微笑みとはかけ離れた顔でつぶやいた。
かつて熱っぽい瞳で好きだと囁いた男に、俺はそういうことは分からないからと返事を曖昧にしてしまったツケがきているのだと思った。それでも、俺が拒まないのなら想われなくても良いと言ったのはこいつなのだ。実際、嫌ではなかった。映画でしか聞いたことのないような情念のこもった言葉をかけられるのも、壊れ物を扱うように触れられるのも、男の腕で抱かれるのでさえも。
ただ、どうしたって目の前の男と同じ情を俺が抱いているのかは、さっぱりわからなかった。色恋というものを、俺はよく知らない。人間が歴史を紡ぐ前から、色恋と性愛は結び付けられ、それに狂うものの少なからずいたそうだが、俺にはとんとわからなかった。実際、恋に狂った人間を見たことはある。あれだけ諌めた親友がそうであったし、現実の色恋というものにいいイメージなどはなかった。それでも親友は収まるところに収まったようで、色恋は飲み込む人間には毒にも薬にもなる、ということは知っている。知っているだけだ。実感したことなどはなかった。
それなのに、まさか自分のような人間が、こんなギリシャ彫刻のような男から懸想されるなんて思ってもいなかった。想像する限り、色恋というものは脳みそが溶け出すほどの感情を持ってしてなされるものらしいのだが、この男にもそういう情があるのかと、甚だ疑問でならなかった。それでも嘘と切り捨てるには心苦しい施しを受けていたし、きらいなどではないのだから、どうにかして分かってやりたいとも思っている。
「うわの空ですね」
「そんなことはない」
何が楽しいのか俺の輪郭をなぞるようにでかい手を滑らせる男は、見飽きた完璧な表情で囁いてくる。この男は、全部が完璧で、つくりもののようだった。いやな意味ではなく、世辞抜きにして美しい。造形も、所作も、表情も、全てが計算された永久機関の数式のようだった。それが、こういう、俺の前で崩れることは気分がいい。焦れるような顔をして唇を合わせられると、石膏が急に血を通わせたように思える。眼をすうと細めて誘惑をしてくるので、抗う気も起きないままに流された。
「あなたが好きです」
「うん」
「私が自分を全て暴くのは、あなただけだと知っていてください」
この男の目に、期待がないことはわかっていた。この男は、俺が拒まなければそれでいいと言い切った。
「私の指を、手を、覚えてください」
太さも大きさも全然違う指が絡む。血流がどくどくと流れているのを感じた。言葉では懇願ばかりしていても、この男は俺に何も望んじゃいなかった。俺が男の本性の断片を見つけるたびに、こいつはすぐに隠してしまう。人類が望む彫刻の中に戻ってしまう。今この男がつくりものじゃないのは言葉だけだった。硬い殻に唯一空いた隙間から本性がこぼれだすのを見てしまったら、俺はそれを逃したくないと思ってしまう。
ふと、されるがままだった指を握り返してみた。見目ばかりは冷たい大理石のようなのに、己の指先に伝わってくる熱は肉そのもので動揺してしまった。俺の望んだタイミングで、望んだ形のように歪む唇が見えた。感じる熱と視覚の温度があんまりにもちぐはぐだった。もしかしたらこの顔も、胸も、腕も、足も、心臓も、ひょっとすると肉と血でできているのかもしれない。そう思うと触れてみたくてたまらなくなった。
「……もっと、」
「なんです?」
「もっと見せろ」
じわ、と瞳の奥にそれが見えた気がした。己の血管も脈打っていた。
なるほど、恋とはこういうものだろうか。
恋を知り始めた新庄清一郎