赤い薔薇とビターチョコレート

　一体何を浮かれているんだぼくは！？
　分かりきっていたことじゃないか！
　授業の合間の休憩時間、何人もの女の子たちが谷地先生にチョコレートを渡している。当たり前だ。だって今日はバレンタインデー。聖ウァレンティヌスの処刑された日で、キリスト教徒にとっては祭日らしいけど、日本人にとってはそんなことほとんど関係ない。
　大切なのは目の前にある事実であって、先生が女の子に人気があったのは前々から分かっていたことじゃないか。それなのに僕のカバンの中にあるのは潰れないようにひとつひとつ丁寧にラッピングしたチョコレートケーキ、で。こんなの正気の沙汰じゃない。急に恥ずかしくなってしまった。なにをむさ苦しい男が知り合いにせっせとお菓子づくりを習ってまでバレンタインに手作りのチョコレートケーキを持ってきているんだ、ばかじゃないのか。こんなの気持ち悪いに決まってる！　ああ、いや、付き合ってもらった知り合いの店員さんにはすごく感謝しているけど。だって、だってぼくだし。アウトだよ。
　ただでさえ先生、そんなに甘いもの得意じゃないって知ってて、当日誰かにチョコレートを山ほど貰うことなんて予想できたはずなのに、ケーキに使ったチョコレートをビターにしたくらいじゃ、迷惑がありあまってお釣りがくる。
　カバンの中のケーキをいったいどうしようかと考えている間に授業が終わってしまった。先生に呆れられるかもしれないのが怖くて怖くて、せっかくいつも楽しみな授業も上の空、ノートなんかスカスカだ。あとで誰かに見せてもらわないと……。ああ、もう、ほんとに。行き場をなくしたチョコレートケーキを今ここでぐしゃぐしゃに握りつぶして飲み込んでしまいたい。せっかくいちばん上手にできたものを選んだのに。そうだ、なんだって先生にこんな贈り物をしようだなんて出すぎた真似を思いついてしまったのだろう？　だって、そんなの、決まってる。
　恋人らしいことくらいしたいじゃないか。
「二重」
　低い声にはっとして、見上げると先生が立っていた。教室はもうがらんとしていて、ぼくがもたもたしているうちにみんな帰ってしまったようだった。今日はもうこれが最後の授業。逃げるなら今しかない。
「もうみんな帰ったぞ」
「う、ん、じゃあ……」
　ぼくも、言いかけたところで腕を掴まれた。
「ちょうどいい。少し付き合ってくれ」
　あっさりと逃げ場をなくしてしまった。
　紙袋に入った大量のチョコレートらしい包みを後部座席に預けている前で、ぼくは先生の車の助手席に座っていた。ぎゅうとにぎったカバンにはいまだ渡せないケーキが健在している。気まずい。
　先生と一緒に降りたのは花屋さんだった。さすが、バレンタインデーだし、花を贈る人も多いんだろう。ピンク色や赤色の花が煽るように目についた。
「バレンタインデーの贈り物に作ってくれ。ああ、メインは赤い薔薇がいいな。それと……おい、お前は何がいいと思う」
　なんでそこでぼくに聞くんだろう。そんなことを言われてもお花なんてヒマワリとチューリップくらいしか知らないから、チューリップと言ったら低く笑われた。なんだっていうんだほんとに。
「じゃあそれも」
　店員さんがにっこりとして頷いて花束を作り出した。なんだ、先生、やっぱり渡す人がいるんじゃないか……。なんだってぼくを連れてきたんだろう。いじわるなのかな。いたたまれなくなって近くにあった黄色の薔薇を見つめていた。
　出来上がった薔薇とチューリップの花束を抱える先生はなんだか様になっている。かっこいい。ぼうっと見ていたら花束をばさりと向けられた。ふわりと花のいい香りがした。
「ほら」
「えっ」
「バレンタインデーだろ」
「……ぼくに？」
　他に誰がいるんだ、と先生は呆れていた。なんてことだ。チョコレートケーキを渡してもいないのに呆れ顔をされるとは予想外だぞ。言われるがまま受け取って、両手から溢れるぐらいの薔薇に囲まれた。なんてキザなんだろう。でも先生には似合ってしまうからなんの文句も言えやしない。
「で？　お前からのチョコレートはいつ受け取れるんだ。もたもたしてたら明日になるぞ」
　……最初から全部お見通しだったみたいだ。ぼくは大きな花束を抱えたまま、車の中に置いてきてしまったチョコレートケーキを取りに行く羽目になった。