無意味な懺悔


 うつろな目が俺を見下ろしていたことをよく覚えている。俺とは違う黒々とした目が、ああ、あのときはそう、黒曜石を思い出していた。

 女の高い声で怒鳴られるのも詰られるのもうんざりして、衣擦れの音すら立てるのが怖かった。
 病気が悪化して俺にかまってやれなくなった母親が、こともあろうに俺を父親の本妻の家に預けたのは、あの人にとっては親切心だったんだろう。良くも悪くも人の悪意みたいなものに鈍感な人だった。多分、その時ばかりは本気で俺を想った選択がそれだったんだろう。同じだけの愛情というものを二つに分けることができる父親と、それを理解し受け入れていたのが俺の母親であったが、もう一方の女は所謂普通の感性を持っていたらしかったので、当然俺に対して良い印象など抱かなかった。あの女は俺の父親を愛しているようだった。だからこそ俺の母親を恨んでいたのは分かっていたが、運が良かったのか悪かったのか、その恨み辛みの矛先は全て俺に向かっていた。今となっては吐き気がするほど嫌な記憶ばかりだが、結果的に俺の母親が被害を被らなかったのはよかった、と、そう信じていたかった。
 ただ、十かそこらのガキにとっては、死にたくなるような日々であったことは確かだった。旦那の言われるままに押し付けられた浮気相手の子供に笑顔を振りまけるほど普通の人間は優しくない。中学生の多感な時期だった義姉はほとんど交流のなかったような義弟を腫れ物のように扱っていた。使用人や父親の手回しで衣食住の保証こそあったがあの家に俺の居場所はなかった。仕方ないと割り切ってはいた。俺があの家の人間の立場だったら同じ気持ちだっただろう。
 元々愛想も良くはない。好きなものが本と植物しか無い役立たずのガキが透明人間のように扱われることに疑問も文句も出なかった。家の人間が誰も興味を持たない、祖父が集めていたらしい本を漁って知識に浸っているときだけ、図書室という狭い空間に居場所があったような気がしていた。

 あなたって本当に若いときのお父さんそっくりね。

 俺がまだ中学生だったときにいやというほどあの女から言われた言葉だった。光も差さないような真っ黒な目で俺を見ながら何度もそう言った。何も不思議はない、実の父親であるのだから似ていて当然だ。俺がどれだけそれを嫌悪しようと、血のつながりだけは天地がひっくり返ったって変えようがない。それをあの女は俺を詰るために吐き捨てる。父親を愛していたくせに、唯一の愛情が向けられない空虚を埋めるために俺で代用していた。性行為を知ったのはそのときだった。嫉妬心に狂った女が上に乗って下品に腰を振りながら俺の首を絞めていた。あの女は俺を仇敵のように思っていたのだろうが、俺からしてみれば父親を理解できないという点であの女は俺と同じだった。俺の向こう側に理解のできない旦那を覗こうとしたとて見えるわけがない。俺はあの女が怖かったが、同情していた。俺にできることは、あの女の神経を逆撫でしないように従順に耐えていることだけだった。
 あの女の言葉は呪いだった。
 とうとうおかしくなったあの女が包丁を持ち出した時も、俺はあれを殴ることすらできなかった。刺されて腕から血を流したまま風呂場に逃げ隠れて落ち着くのを待った。何度も聞いた耳をつんざく甲高い声がずっと苦手だった。薔薇の匂いに吐き気を覚えながら、ふと静かになった外を覗くと、あの女が俺を刺した包丁で首をかっ切って死んでいた。
 あの女が死んだのはもしかしたら俺のせいだったのかもしれない。死んでくれてよかった、ざまあみろと嗤ってやりたかったが、胃の奥がひっくり返ったように気分が悪くて涙すら出なかった。あとで義姉に聞いたが、女の死体のそばで俺は立ち尽くしていたらしい。
 あの女は俺に刃を向けるほど執着していたくせに、驚くほどあっさり死んでしまった。黒曜石のようだった目は濁り切って見る影もない。わからない、俺はただ単にあの女に同情してたんだろうか。お前のせいだと何度も詰られた。

 じゃあ、そうか、あんたが死んだのは、俺のせいなのか。





 ――存在しない罪に罰を与えたって誰も救われない。

 どう考えたって先生のせいなんかじゃない。
 先生の義理のお母さんが死んだのはその人がおかしくなってしまったからだし、それを先生が止められなかったことに罪なんてあるわけがない。その人の実の娘であるお義姉さんだって、先生のお父さんだって先生のことを一言だって責めはしなかっただろう。むしろお義姉さんはそんなことになってしまったことを余程後悔しているようだった。先生がそれを気にしていることも含めて。目の前で人が死んでしまう、なんてぞっとするほど恐ろしいことだけど、先生が責められるいわれなんてないし、現実に先生を責める人はいなかったはずだ。それなのに、先生は存在しない罪にずっと苦しんでいた。
 自分のせいだと思わなければおそらく死んでしまうくらい、きっと、ああ、先生は口では決して認めないだろうけど、その人を愛していた。愛情と言い切ってしまうにはひどく歪なものだろうけど、先生はそれに長い間縛られている。十数年もの間、先生の中で女の人の死体が生きていると思うと嫌な気持ちになる。
 だって、もう解放してやったっていいじゃないか。悪夢を見て眠るのが怖いのを十年も耐えたんだ。後悔も懺悔だってもう十分なはずだ。ぼくは先生をそんなに前から知ってるわけじゃないけど、悪夢にうなされている先生は何度も見た。先生は夢の中で何度懺悔したんだろう。そんなことをしたってお義母さんが死んでしまったことはなかったことにはならない。そんな残酷なこと、ぼくの口からは絶対に言えやしないけど、死んだ人間はいくら願っても生き返りはしない。先生はひどい人だと思うけど、人の死を本当に望むほど非情な人でもない。
 もしも万が一先生に罪があるならば、それだってもうとっくに赦されてもいいはずなんだ。でもそれをぼくが言ったってきっと届きやしない。薄っぺらい言葉をいくら並べたって言葉なんかじゃ先生は救われてくれない。
 本当に、恨んでしまう。先生が昔愛していたひどい女の人なんて知ったことか。それを言うほどぼくは外道にはなれないけれど、はやくいなくなって、さっさと先生を引き渡してほしい。地獄の底から未練がましく足を掴んでいるなら、そんなものぼくが切り離してしまいたい。
 だからぼくにできることといえば、先生の悪夢を、ぼくが気づいたときだけ頭から追い出してあげることくらい。辛抱強さを褒めて欲しいものだと思う。その人がどれだけ美人だろうが、先生がどれだけ後悔していようが、今はぼくが先生を一番大事に思っている。ぼくの武器はそれだけ。
 ねえ、先生。先生がぼくを一番愛していると言ってくれたことに、ぼくがどれだけ救われていたかなんて、考えたこともないでしょう。あなたに向けていた好意がまさか返ってくるなんて、ぼくは思ってもいなかったんだから。かわいそうな人、ぼくに対してのたった一回の過ちを、ぼくが先生の中にいる女の人をゆっくりゆっくり殺していくことで仕返しするのを許してね。一度だって責めたり殴ったりなんかしてあげないよ。先生が安心して眠れるようになるまで、あの人の居場所なんて無くしてあげる。

 聞こえてるかな。ぼくはずっとここにいるよ。


谷地道也はずっと義母の陰にとらわれているし、孫久くんはそれが恨めしくてしかたがない